WEBVTT

00:00:00.000 --> 00:00:20.000
マンシュー開拓は昭和7年から大陸政策の要として、また昭和強行以降の経済不強化で農村構成策の一つとして遂行されたものです。

00:00:20.000 --> 00:00:29.000
昭和7年から14年間、第1次から第14次まで、その数は全国で27万人と言われ、

00:00:29.000 --> 00:00:43.000
長野県はその中で最も多いおよそ3万8000人の開拓団と万毛開拓青少年義勇軍を送り出しましたが、戦争により悲惨な結末を迎えました。

00:00:43.000 --> 00:00:53.000
県内で最初に分村移民を送り出したのは大日向村、現在の作穂町です。

00:00:54.000 --> 00:01:02.000
そして最も多くの移民を送り出したのが飯田下稲地域、およそ8400人です。

00:01:04.000 --> 00:01:08.000
この地域に万毛開拓を語り継ぐ会が発足。

00:01:08.000 --> 00:01:20.000
下稲地域に住む人たちが同じ地域で万毛体験をした人たちから、その記憶と思いを聞き、聞きかけ報告集としてまとめる活動をしています。

00:01:23.000 --> 00:01:30.000
希望せりは越冬帯というのがあったけどな。秋を済ませてまた越冬する人もおったけど、

00:01:30.000 --> 00:01:37.000
われわれがいたときは夏のがあれだもんでな、冬までおる地域じゃなくて、いったわけ。

00:01:37.000 --> 00:01:41.000
-それが昭和19年、20年になりますね。

00:01:41.000 --> 00:01:42.000
-20年ですね。

00:01:43.000 --> 00:01:52.000
どういう顔して村へ帰りゃいいし、もういないへ帰りゃいいと、正直言って思ったこともありましたけどね。

00:01:53.000 --> 00:01:55.000
-赤ちゃんを連れてらしたんですよね。

00:01:55.000 --> 00:02:05.000
一人であいてたの。ご飯を、高梁のお粥を口で噛んで食べさせたとか。

00:02:05.000 --> 00:02:16.000
本体の人たちが出迎えてくれて、えらいとこ行きちゃったねって言われたけども、えらいとことは思わないんで、いいとこ行きたいなと期待しておりました。

00:02:16.000 --> 00:02:18.000
-そんなこと言われたんですね。

00:02:18.000 --> 00:02:27.000
日本が負けたということで、どうせ逃げて行ったって、どこかで殺されるか。

00:02:27.000 --> 00:02:33.000
もうここでみんな、お父さんの後を追いましょう。

00:02:33.000 --> 00:02:42.000
朝出かけて、万里は終戦になれば帰って来られるはずが来れなかったということで戦死しちゃったんだとか、

00:02:42.000 --> 00:02:58.000
そうみんな思い込んで、私たちも遺産よく命を断とうという話がまとまって。

00:03:01.000 --> 00:03:04.000
飯田市立みどりが丘中学校です。

00:03:04.000 --> 00:03:10.000
久保田さんたち語り部のみなさんが子どもたちに体験談を語り継いでいます。

00:03:10.000 --> 00:03:24.000
開拓団には少数、それから後に毎週のように一人か二人ずつ、少数例上によって軍隊へ行ってしまったわけですが。

